the second memory
安定供給を守り抜くDNA(後編)
2024.8.2
2011年3月11日に発生した東日本大震災。日本社会を揺るがした未曾有の大災害は、「電力の安定供給」をも根底から覆した。原子力発電所は停止し、頼みの火力発電所も津波により壊滅的な被害を受けたため、大幅に供給力が不足した。強い危機感に駆られたそのとき、頼みの綱となったのが鹿島火力発電所だった。
第2回の後半では、東日本大震災直後の混乱と、電力供給力を確保するために鹿島火力発電所に新たな電源を設置するまでの奮闘を追う。
>> 第2回「安定供給を守り抜くDNA(前編)」を読む使命を果たせなくなる、強い危機感
2011年3月11日 東日本大震災直後の中央操作室の様子
2011年3月11日、東日本大震災。大地震と巨大津波によって、東京電力の福島第一原子力発電所をはじめ、発電所の多くが稼働停止に追い込まれた。これにより、東北地方および関東地方において、深刻な電力不足が発生する。
この事態を収拾すべく、東京電力は他の電力会社から電力の融通を受けるなど安定供給確保に取り組むのと同時に、国を通じて国民や経済団体に向けて節電を要請した。しかし、今後予想される電気の使用量に対し、供給力が厳しい状況にあることを踏まえ、大きな決断を余儀なくされる。3月14日からの1都8県での計画停電実施だ。
「電力の安定供給は東京電力にとっての使命であり、社員に根付いた“DNA”のようなもの。ですが、その存在意義を根底から揺るがす未曾有の状況が起きた。『もし2度も計画停電を実施することになれば、この会社は終わりだ』。そんな危機感が、社内に広がっていました」と、当時東京電力の執行役員・火力部長だった佐野氏(JERA 前代表取締役会長)は振り返る。
「できる・できないではなく、やるしかなかった」。そう語る佐野氏
これから、電力需要のピークである夏を迎える。福島第一原子力発電所の復旧は見込めない。今の供給力のままでは、2度目の計画停電は避けられない——日に日に焦りが強まるなか、頼みの綱は火力発電、特に発電容量の大きい鹿島火力発電所の復旧だった。
「当時、東京電力の経営層は福島第一原子力発電所の事故対応に追われており、火力事業は私が全ての責任を負うことになりました。最大の使命は、電力供給力を確保し計画停電を回避することで、その重責に眠れない日々が続きましたが、いつまでも不安を抱いたって仕方がない。最善を尽くし、それでもだめだったら、責任を取ろう。そんな強い覚悟で復旧の指揮を執りました」
復旧の先陣を切った鹿島火力発電所
鹿島火力発電所では、地震により停止した2、3、5、6号機に加え、地震による液状化現象や津波の浸水により1、4号機までも運転ができない状態に陥っていた。佐野氏は「申し訳ないと思いつつも、鹿島火力発電所には無理なお願いをした」と話す。
「当時の所長には『発電所復旧の全てを任せる。ただし、運転再開までは1カ月弱しかない。必要なことは何でも言ってくれ』と。私自身も現場の経験がありますから、1年以上かかりそうなことは分かっていました。それでも、無理を承知の上でお願いしたのです」
震災直後、1か月後、2021年4月の様子。震災直後は液状化現象により設備が沈降しているが、1カ月後には復旧している
だが、その予想は見事に覆される。鹿島火力発電所では所員、協力会社、メーカーなどが一丸となって昼夜問わず復旧作業に当たり、地震発生から21日後の4月1日には4号機の運転を再開。それを皮切りに、わずか2カ月で全機の運転を再開させたのだ。佐野氏は、この復旧を“奇跡”と表現する。
「なぜこれができたのかと言えば、関わった全員が『鹿島のために』と全力で取り組んでくださったからに他なりません。そして、鹿島火力発電所が早期復旧できたことによって、同じく被災した常陸那珂火力発電所や広野火力発電所が、『自分たちも頑張ろう』と後に続いたのです。いくら感謝してもしきれない思いです」
震災で大きな被害を受けた海水消火ポンプ建屋と現在の様子
このほか、国内外からディーゼルエンジンやガスタービンなど緊急電源を集め、なんとか2011年夏の計画停電を回避することができた。だが、福島第一原子力発電所の事故により、電力供給は不透明な状況が続き、先々を見据えて電源の増強が必要になっていた。そして2011年夏、鹿島火力発電所の敷地内に、新たな電源として7号系列を緊急的に設置することが決まった。
今なお重要な電力需給の調整機能を果たしている7号系列
大幅な工程遅延と膨大な工事量
7号系列建設のミッションは2つあった。1つ目は、ガスタービンを3台設置し、2012年7月までに運転を開始させること。そして2つ目は、蒸気タービンや排熱回収ボイラーを増設する「コンバインドサイクル化」工事を行い、2014年の夏までに運転を開始させること。
2011年7月、7号系列の建設を担う特命チーム「鹿島火力建設所」が発足。メンバーは、副所長に任命された鵜澤新太郎氏(現東京パワーテクノロジー株式会社 常務取締役)、電気設備・制御装置に精通している亀井宏映氏(現JERA O&M・エンジニアリング技術統括部デジタルパワープラント推進部長)のほか、海外事業や火力事業の経験者、若手社員が集められた。
「前例のないことだらけだった」。鵜澤氏は工事を振り返ってそう語る。
副所長として、周辺自治体や地域住民等の調整に明け暮れたという鵜澤氏
「ガスタービンを運転させながら、コンバインドサイクル化工事をするなんて、前例がない。しかも、超短工期。通常6年はかかるものを3年で完了させなくてはなりません。そして着工当時、燃料である都市ガスを供給するガス導管が未完成だったことも前例がありませんでした」(鵜澤氏)
事実、工事は出だしから困難を極めた。亀井氏は「そもそも工事を進めることすらできなかった」と話す。
震災発生後は、約300もの緊急設置電源の構築に携わってきた亀井氏
「私が受けとった資料はA3用紙1枚の基本設計書のみ。任命されたものの、工事に必要な情報を手探りで集めていく必要がありました」(亀井氏)
膨大な工事量も壁となった。当初、燃料は都市ガスだけではなく軽油も使用することを検討していた。未完成の都市ガス導管が間に合わなかったときのために、軽油も燃料にできるようにと考えられていたのだ。そのため工事量が2倍に膨れ上がっていた。
「都市ガスだけであれば、配管をつなぐだけなのですが、軽油の場合、タンクを造ったり、ポンプを設置したりする工事が必要になります。情報収集に時間を要したこと、そして膨大な工事量により工程遅延が重なり、いよいよ一刻を争う事態になっていました。必達目標である2012年7月に運転開始が間に合わない可能性が出てきたのです」(亀井氏)
切迫した状況のなかで出した一つの決断
工程遅延が深刻化する2011年10月、建設所のメンバーを集めて、鵜澤氏がある決断を下す。「軽油の工事を中断し、ガス火力発電の工事に全てのリソースを投入しよう。」都市ガスのガス導管が早期に完成する可能性に賭けた。
「私は以前ガス事業に携わっており、ガス会社の仕事の流れややり方をよく見ていました。ガス会社さんは、地域との折衝力や、事業の推進力に長けているため、必ず間に合わせてくると考えました」(鵜澤氏)
だが、本当に間に合うのか。亀井氏は、機械グループメンバーとガス会社に対して都市ガス導管の接続工事や使用開始のタイミングを何度も相談し、「試運転が始まる6月6日までに何としても間に合わせてほしい」と繰り返し伝えた。
「ガス導管は地中に埋設して進んで行くので、想定していないものが発掘されるなど、予定通りには進まないものです。そのため、ガス会社だけではなく、工事を進める方々にヒアリングを重ねて、大きな不具合や想定外の事象は起きていないことをつかんだので、一気にガス火力発電の工事に振り切ったのです」(亀井氏)
間に合わせるためには何でもした。電気制御品の輸送には世界最大級の輸送機アントノフを使用して工程を圧縮
同時にコンバインドサイクル化を進めなくてはならないのが、この工事の難しさだった
これらの努力が実を結び、ガスタービンの試運転が6月6日に開始する。その後、7-2軸、7-1軸、7-3軸が順次営業運転を開始した。第1弾のミッションである7月の緊急設置ガスタービンの営業運転開始は無事に達成された。
7号系列建設の風景、7-1・2軸、7-3軸
だが、休む暇はなかった。同時進行で、第2弾のコンバインドサイクル化が進む。ここでも、人員確保が困難になり、工程遅延に悩まされた。だが、1-6号機の所員、メーカー、地域の消防署など各所の協力を得たことで、工事完了にこぎ着ける。「いくつもの壁にぶつかったが、前例にない工事をやってのけた」(鵜澤氏)。プロジェクトメンバーはやり遂げた達成感をかみしめていた。
コンバインドサイクル化が終わったその瞬間、全員で手を叩いた
鹿島が教えてくれた“仕事の本質”
当時の奮闘を思い出す今、3名それぞれが口にするのが、「鹿島火力発電所の経験によって『仕事とは何か?』を考えさせられた」という話だ。
「当時、佐野さんによく言われたことですが、“考えてから走るな、走りながら考えろ”って。本当にその通りで、あの時、少しでも考えこんでいたら、間に合うことはなかったでしょう。だからこそ、今までの自分の知識をフル稼働させて、関係者を巻き込んで、瞬時に物事を判断していくしかなかった。もちろん、当時だからできたことでしょうが、こうした体験は間違いなく自分を大きく成長させてくれたと思っています」(亀井氏)
「それができたのは、亀井さんが仕事の大切なところを掴んでいたからだと思います。例えば、ある装置の制御をするにも、やり方を覚えているだけでは駄目で、なぜそのような制御が必要なのか、状況に応じた適切な制御の方法を分かっていないと、いざというときに的確な判断はできません。鹿島火力発電所での緊急設置電源の工事は、亀井さんをはじめさまざまなメンバーが“なぜ?”をくり返して研鑽を積んでいたからできたのだと思います」(鵜澤氏)
「亀井さんの突破力に全幅の信頼を寄せていた」(鵜澤氏)。「鵜澤さんが一つにまとめてくれたからできた」(亀井氏)
時が経ってもなお、それぞれの心に宿っている“鹿島の教え”。「その存在は撤去工事が終わったからといって、なくならない」と佐野氏は語る。
「JERA設立時の基本理念として『国際競争力あるエネルギーの安定供給と企業価値の向上を同時に実現する』があります。それと同時に日本も含めた『世界のエネルギー問題に最先端のソリューションを提供する』のもJERAの使命です。鹿島火力を含め、JERAの発電所にはこれまでとは異なる新たな役割を担う地点も出てくるのではないでしょうか。真っ新になったときに、その地点特有の状況をふまえたどのような活用方策があるのか。そこは、これからのJERAの大きなテーマだと思います」(佐野氏)
撤去工事によって、一つの区切りを迎えようとしている鹿島火力発電所。だが、それは新たな出発点でもあるのだろう。(つづく)
「これからはその地域を知る人のアイデアが肝」。そう語る佐野氏